園長だより6月「春から夏へ」「読み聞かせについて」

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ごめんなさい、ちょっと公開が遅くなってしまいました。6月1日に園児が持ち帰りました「のびのびつうしん6月号」の園長だよりです。

春から夏へ

香る5月の風が初夏の気配を運んできます。平常保育に移行して約一ヶ月が経ち、新入園の子どもたちも在園組の子どもたちも、それぞれ自分のリズムで今の生活に慣れてきているのを感じます。

 

子どもたちの心情の変化は、日常の些細な場面によく現れてきます。毎朝の「おはようございまーす」の挨拶がより大きく力強い声になったこと。園庭や廊下ですれ違う担任以外の先生に話し掛けたり、おどけてみたり、困った事を伝えられるようになったこと。そして何よりも自分でやりたい遊びを見つけて飛び出していけるようになったこと。

 

「私、ブランコしたい」「先生、縄とび回して」「一緒にドッヂボールしようよ」と友だちや保育者に伝え合う姿。“今、自分がしたいこと”が沢山あるって素敵ですね。“一緒に遊びたい人”が側に居てくれるって幸せですね。まだ少しドキドキしてしまって、自分からは「入れて」と言葉にできないこともあるけれど、友だちや先生に「〇〇ちゃんも一緒にやろう!」と誘われるのを待っていることを視線や面差しに感じます。

 

入園児はもちろんですが、園生活に慣れている年中長児も、この時期、自分のしたい遊びを通じて“まだ一緒に遊んだことのない友だち”にまなざしを向け、相手を知ろうとしたり、自分にはない行動の仕方に関心を寄せ刺激を受けたり、少しずつ少しずつ新しい人間関係を築いてゆきます。保育者は子どもたちをつなぐ“のり”接着剤です。

 

大人であっても、知っている場所、慣れた環境、気のおける知人と過ごすのは安心しますよね。子どもたちは更に毎年この安心感を基軸にしながら、次の生活へ、新しい友だち関係へと飛び込んでいくのです。実はとってもすごいこと!そしてとても大切なことです。新しい人との出会いは、新しい自分との出会いでもあります。

 

そうした人との関わりは、始めからはそう上手くはいかないものです。また逆に、気心が知れているからこそ一方的な強い言動になることもあります。子どもたちは、自分の思いや欲求を伝え合う中で、様々な形でのトラブルや衝突を経験します。

 

「これ、私が使ってたのっ!」「私だって使いたいのっ!」「ブランコかわってくれないの」といった欲求に端を発するもの。「Aちゃんに入れてって言ったら、今日はBちゃんと遊ぶからダメだって言われたの」「さっき色オニして、次はサッカーしようって決めたのにC君はやってくれない。ズルイ」といった友だち関係や物事の善悪、約束の遂行等、年齢が大きくなるにつれて複雑にも多様にもなります。

 

うしたトラブルや衝突は、保護者様にはご心配の種かもしれませんね。けれど、少し見方を変えてみると、それはお子様が紛れもなく友だちとの関わりを深めている何よりの証。悲しかったり、不本意に感じたりする出来事やその時の思いは、成長のための大切な栄養のひとつです。

 

向かう先には「相手への思いやり」があります。どのトラブルも衝突も相手の気持ち、心(思い、考え、悲しさ、戸惑い、やさしさ、大切さ)に気づけた時、「いいよ」と譲ったり、「ごめんね」と謝ったり、「こんな風にすれば…」と折り合いをつけたりしながら、「共にあろう」とする気持ちを強くしていき、自ら解決できるようになっていきます。その時、保育者は“ナビゲーター”もしくは“アシスト”役になり、子どもたちを導きます。

読み聞かせについて

宅の狭い一室の両壁一面に本棚があります。片側には絵本、もう片側には主人と私の本が並んでいます。その本棚に一葉の写真が飾ってあります。居間のソファに主人を真中にして長女と次女が座り、本を読んでもらっている時の写真です。

 

4歳の長女は昨日の続きで「龍の子太郎」を読んでもらっており、その表情から緊張する場面だったことがうかがわれます。2歳の次女は、次にお父さんに読んでもらおうと準備している絵本を膝に乗せ、こっそりのつもりで写真を撮っている私に、にこやかにピースサインを送っています。

 

私の大好きな写真です。見る度に慌ただしかった当時の日常や就寝前の穏やかなひと時を思い出します。また、2歳と4歳という年齢だけに興味や理解の違いがあったからかもしれませんが、それぞれが一冊ずつの「私の本」を「私のために」読んでもらう時間を楽しみにしていたことを感じます。

 

絵本は、主人が読むこともあり、私が読むこともありました。毎晩娘たちは本棚から一冊の本を選びます。当時も仕事柄、沢山の絵本がありましたが、娘はよく同じ絵本を選びました。内心「またぁ」という思いもありましたが、好きな本なのですから仕方がありません。それを父と母の声音で読んでもらうのです。

 

時はあまり深く考えたことがありませんでしたが、その後「異なる読み手による違い」について考えるようになりました。園で先生方が子どもたちに読み聞かせをしている場面を見ることがあります。その時にも「私とは違う読み方」に気付き、「なるほど」と思うことがあります。それは経験やスキルの差ということではなく、言葉は生き物であることを教えてくれます。

 

同じ物語、文脈、セリフであっても、読み手によって強調する箇所や臨場感の持たせ方、間の取り方やページをめくる速度等が異なり、同じ絵本に様々な角度や奥行きを作ってゆきます。

 

一説では、聞き手の解釈の妨げにならぬよう、不要な強調やセリフごとに声を変えることをせず、淡々と読む方がよいとあります。私自身は、子どもたちに絵本を読み続ける中で、私は私の読み方で読んであげたいと思っています。

 

時への後悔もあります。娘たちはそれぞれ4歳の誕生日を迎える頃に文字への興味が増し、最初は自分や友だちの名前、そしてひと月も経たぬ内に五十音を読めるようになりました。まさに“その時を迎えた”という感じでした。それから娘たちは自分でもよく本を開き声を出し読んでいました。ですので、時折あまりにも忙しくしていたりすると、私は娘に「自分で読めるでしょ」と言ってしまったのです。

 

今は分かります。読み聞かせてもらうのと、たどたどしく文字を拾って読むのとでは全然違います。それは音の連なりです。物語に没頭するにはこれが必要です。戸山滋比古氏は著書「乱読のセレンディピティ」で次のように記しています。「ことばはひとつひとつの残響、残像をもっていて、次のことばと結びつく。(中略)ひとつひとつ独立していることばをある速度で読むと、前の語の残像がはたらいて、つぎの語との間にある空白を埋め、つながり流れを生じる」

 

お父さん、お母さん、それぞれの声と読み方で、お子様に本を読んであげて下さいね。子どもたちと同じくらい親にとってもかけがえのない時間と恵を生み出してくれるはずです。

園長 浅見 美智子